top of page

グレン・グールドと2cm

更新日:4月7日

本当にこんなに低くていいのだろうか——そう思うほど、私のピアノの椅子は低くなった。グレン・グールドと、わずか2cmしか違わない。


身長も腕の長さも、何もかも違うはずなのに、ほんとうにこれでいいのだろうか。

まさか、座高だけが同じだったりして——そんな馬鹿な、と思いながらも、どこかで否定しきれない自分がいる。


子供の頃から教わってきた感覚からすれば、これはもう冗談のような高さだ。

「いい加減にしなさい」と叱られてもおかしくない。


それでも、疑いながら弾いてみると、今の私にはこれがいちばん自然に馴染む。

だからもう、誰に何を言われても変えるつもりはない。


親指は、他の指とは違う方向を向いている。

そのため、人差し指と小指で手の内側を支える感覚が鍵になる。

椅子を低くしたことで、その支えが、すっと安定するようになった。


指の付け根を支点にして、腕はただ、ぶら下がっている。

そんな感覚がある。


ピアニストの指は白魚のようだ、という言葉を聞くことがあるけれど、

私は一度も、そんな手に出会ったことがない。


私の指はごつごつとして、掌には厚みがあり、関節も骨ばっている。

おそらく、それが現実だ。


ピアニストの椅子の高さは、人それぞれだ。

どんな高さでも弾ける人は弾ける。けれど、そうではない私は、特に長いリハビリの後、自分の身体と向き合わざるを得なかった。


今の高さにたどり着くまでに、2年ほどかかっている。

おそらく、骨盤で上体を支える感覚を、少しずつ思い出していったのだと思う。


かつて感じていた、ピアノとの一体感が戻ってきた。


それは、うまく話せない相手との会話から解放されたときのような、静かな安堵にも似ている。


同時に、呼吸も変わった。

長く弾いても、不自然な疲れが残らない。


——ただ、一つだけ問題があった。ペダルだ。


椅子が低くなったぶん、足首の可動域が広がる。

ある日のライブで、右のふくらはぎが攣りかけ、ひやりとした。

左足で代用しながら、なんとか弾き切ったものの、これは見過ごせない。


おそらく、慣れない可動域に対して、無意識に力が入っているのだろう。

足首ではなく、脚の付け根から動かすように意識すると、ふっと力が抜ける瞬間がある。


細やかなペダリングを求められる場面は多くない。

それでも、響きにささやかな衣をまとわせる程度のことはしたい。


そのためには、どこまで可動域が広がっても、足が自由であること。

やがて、「踏む」のではなく、ただ「乗せる」感覚へと変わっていった。


そうすると、不思議と疲れなくなる。


けれど、考えれば考えるほど、これは足だけの問題なのだろうか、という疑問も浮かんでくる。


かつて調子の良いとき、身体が床に吸い込まれていくような感覚があった。

それに対して今は、軽い。楽ではあるけれど、どこか違う。


軸なのか、重心なのか。


昔、師に問われたことがある。

「ピアノを弾くときの軸はどこだ?」

「俺は肩だな」


そのとき私は、「お腹です」と答えた。


今思えば、それは軸というより、重心の話だったのだと思う。


あれから長い時間が経った。

それでも、ふとした瞬間に、その言葉が戻ってくる。


壁にぶつかったときだけではない。

こうして手探りで何かを確かめているときにも、静かに寄り添ってくる。


いま私は、かつての自分に戻ったような気持ちで、

ピアノを弾く身体について、あらためて学んでいる。


鍛えるというより、整えること。

全体としての調和。


身長158cmの軽めな身体で、数百キロの楽器に、極端に低い椅子に座って向きあっている姿を想像すると、どこか可笑しさもある。


けれど、疑問があるということは、まだ進めるということだ。


響きは、操作するものではない。

整った身体の先に、自然と立ち上がるものなのだと思う。






 
 
 

コメント


bottom of page