グレン・グールドと2cm
- yoko kobayashi
- 4月5日
- 読了時間: 3分
更新日:4月7日
本当にこんなに低くていいのだろうか——そう思うほど、私のピアノの椅子は低くなった。グレン・グールドと、わずか2cmしか違わない。
身長も腕の長さも、何もかも違うはずなのに、ほんとうにこれでいいのだろうか。
まさか、座高だけが同じだったりして——そんな馬鹿な、と思いながらも、どこかで否定しきれない自分がいる。
子供の頃から教わってきた感覚からすれば、これはもう冗談のような高さだ。
「いい加減にしなさい」と叱られてもおかしくない。
それでも、疑いながら弾いてみると、今の私にはこれがいちばん自然に馴染む。
だからもう、誰に何を言われても変えるつもりはない。
親指は、他の指とは違う方向を向いている。
そのため、人差し指と小指で手の内側を支える感覚が鍵になる。
椅子を低くしたことで、その支えが、すっと安定するようになった。
指の付け根を支点にして、腕はただ、ぶら下がっている。
そんな感覚がある。
ピアニストの指は白魚のようだ、という言葉を聞くことがあるけれど、
私は一度も、そんな手に出会ったことがない。
私の指はごつごつとして、掌には厚みがあり、関節も骨ばっている。
おそらく、それが現実だ。
ピアニストの椅子の高さは、人それぞれだ。
どんな高さでも弾ける人は弾ける。けれど、そうではない私は、特に長いリハビリの後、自分の身体と向き合わざるを得なかった。
今の高さにたどり着くまでに、2年ほどかかっている。
おそらく、骨盤で上体を支える感覚を、少しずつ思い出していったのだと思う。
かつて感じていた、ピアノとの一体感が戻ってきた。
それは、うまく話せない相手との会話から解放されたときのような、静かな安堵にも似ている。
同時に、呼吸も変わった。
長く弾いても、不自然な疲れが残らない。
——ただ、一つだけ問題があった。ペダルだ。
椅子が低くなったぶん、足首の可動域が広がる。
ある日のライブで、右のふくらはぎが攣りかけ、ひやりとした。
左足で代用しながら、なんとか弾き切ったものの、これは見過ごせない。
おそらく、慣れない可動域に対して、無意識に力が入っているのだろう。
足首ではなく、脚の付け根から動かすように意識すると、ふっと力が抜ける瞬間がある。
細やかなペダリングを求められる場面は多くない。
それでも、響きにささやかな衣をまとわせる程度のことはしたい。
そのためには、どこまで可動域が広がっても、足が自由であること。
やがて、「踏む」のではなく、ただ「乗せる」感覚へと変わっていった。
そうすると、不思議と疲れなくなる。
けれど、考えれば考えるほど、これは足だけの問題なのだろうか、という疑問も浮かんでくる。
かつて調子の良いとき、身体が床に吸い込まれていくような感覚があった。
それに対して今は、軽い。楽ではあるけれど、どこか違う。
軸なのか、重心なのか。
昔、師に問われたことがある。
「ピアノを弾くときの軸はどこだ?」
「俺は肩だな」
そのとき私は、「お腹です」と答えた。
今思えば、それは軸というより、重心の話だったのだと思う。
あれから長い時間が経った。
それでも、ふとした瞬間に、その言葉が戻ってくる。
壁にぶつかったときだけではない。
こうして手探りで何かを確かめているときにも、静かに寄り添ってくる。
いま私は、かつての自分に戻ったような気持ちで、
ピアノを弾く身体について、あらためて学んでいる。
鍛えるというより、整えること。
全体としての調和。
身長158cmの軽めな身体で、数百キロの楽器に、極端に低い椅子に座って向きあっている姿を想像すると、どこか可笑しさもある。
けれど、疑問があるということは、まだ進めるということだ。
響きは、操作するものではない。
整った身体の先に、自然と立ち上がるものなのだと思う。




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