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執筆者の写真yoko kobayashi

味わいながら生きること

年中行事である諸々検査が終わった。結果はまだ出ていないけど、E子先生は「おそらく悪いものではないから大丈夫ですよ」と言っていた。

検査の時はいつも麻酔を打ってもらっているのだけど、それでも今回は胃の内視鏡検査の際、痛がって暴れたのだそうだ。全く身に覚えがない。


こんな検査や日帰り手術が始まってそろそろ10年になるけれど、こんなことは初めてだ。

お陰で次回(来年)から諸々検査を二日間に分けることになった。

二日間も潰れるのはイタいけれど、まぁ仕方がない。


そして確定申告も終わり、やっと音楽に関しての日々やるべきことにも集中できる、と同時に、早く春が来ないかなって待ちわびるこの時期もなかなか楽しい。


夏が得意で冬が苦手だった私も、いつの間にか、その時その時の空気や風の匂いを感じながら、季節の移ろいを楽しむことができるようになった。


洗濯機に洗濯物を入れ、スタートボタンを押すことすら楽しいってどういうことなんだろう?

電子レンジがピーッと鳴り、炊飯ジャーがご飯が炊けたことを知らせてくれることも嬉しくて仕方がないってどういうことなんだろう?


恐らく今音楽できていて、熱く楽しく向き合えているからなんだと思う。

そのために一番大切な健康面も今はクリアできている。


ピアノに関しては今出来ていることがたかが知れているからか、多大な伸びしろを実感しているではないか。このことに一番ワクワクしていて、朝起きるのが楽しみってどういうこと?笑

(*注 但し、就寝時に「明日朝は無事に目を覚ますことが出来るのか?」という思いが、この頃毎回頭をよぎって焦る私)


何となくだけれど、これから先は一日一日を大切に、感謝の気持ちや思いやりの心を忘れず、毎日を味わいながら生きなさいって、どこか遠くから言われているような気がしている。


能天気が瑕だけど、「穏やかに強く」生きたいという願いは変わらないが、この「強く」がなかなか難しい。

見せかけの優しさや、優しさという勘違いではなく、本当の意味で優しい人でないと強くはなれない気がする。


なんて考えていたら、強い人でないと本当の意味で優しくなれないのかも、という因果性のジレンマに陥ってしまった私は、やはり本来の能天気さを保持して、学習して分かった人生を味わいながら前に進んでいくこと、これに尽きると踏む。



音楽をやっていなかったら、私は今頃いったい何をしてたんだろう?

両親は全く音楽とは関係ない職種だったけれど、レコードだけは膨大な数がジャンル別にきれいに整理されていた。

クラシック、ジャズ、タンゴ、ロック、ラテン、ボサノバ、映画音楽、etc.

小学生の頃、よく妹や弟と、曲タイトルを記憶して、そのしりとりをして遊んでいた。

昭和だなぁ。

今でも「エルチェクロ」と「エルクンバンチェロ」だけは覚えている。

残念ながら、「エ」で終わる曲タイトルがなかなかなくて、ほとんど出番はなかったな。


一番才能のない私が音楽の道に進みたいと伝えた時、両親はとても喜んでくれた。


私も段々と父が他界した歳に近づいてきて、父はさぞ心残りだったろうと今思う。もっと生きたかったよね。


今私にはこれだけはやり遂げたいと思うことがあるくらいだから、父もきっとそうだったに違いない。


もう何年もすると、父が歩んでいない人生を生きることになるけれど、きっと大丈夫。


思い起こせば、子供の頃から「穏やかに強く」生きる人を目の前にしていたんだと今頃になって気付く。


今、お酒を飲みつつ語り合えば、楽しいだろうな。話は尽きないよ、きっと。


音楽に出会えて良かった。

素晴らしい音楽仲間や先輩たちと出会えて良かった。


こんなことは、私にとっては奇跡以外の何ものでもない。

身にしみてそう思う。


















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