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執筆者の写真yoko kobayashi

一意

嘗てこんなにピアノに向かっていたことがあっただろうか。


もちろん若かりし日には、遥か彼方に在る自分の理想とする音楽に少しでも近づきたい一心で、無闇矢鱈に時間ばかりかけていた。



当時は現在のような情報網はなく、情報収集には、時間や距離を気にする必要もあった。

目的のレコードを探し歩いたり、やっと見つけたと思ったら高くて買えず、それもどうしても耳コピしたいのは、とりあえずはその中の一曲だけなのに、あちこち回って、結局丸一日つぶれたりもしたものだ。

その日は練習できずに終わる羽目になる。



そう言えば、あの広辞苑みたいに分厚い音楽文献もいつの間にかここにはない。いつどうしたんだろう。



今は、音楽に関してピアノという楽器に関してある程度のことを理解し、音楽経験も手伝って、あの頃の向かい方とはだいぶ違っている。


過去に10年間ほど、(音楽の世界からの)情報を一切シャットアウトしていた時期もあったせいか、ライブシーンに戻った際には「井の中の蛙大海を知らず」がこんなに私にぴったり当てはまるとは思いも寄らないことだった。


そんな時期を全く無駄だったとは思っていないけれど、そのせいか余計に今ピアノと、ああでもないこうでもないと向き合っている時間が楽しい。いまだに単なる奏法に於いても発見がある。15年遅れで進んでいってる気がして、お陰で15歳位若い気分でいる。


35年前の移転前のピットインでの演奏が残されたカセットテープが出てきた。

カルテットやクインテットで演奏している。

内3人は既に亡くなられている。


ピアノの音は少し遠いけれど、こんなにもちゃんと残されていたことに驚いた。

目の前の先輩ミュージシャン方々が怖くてビクビクしながらピアノを弾いていた頃だ。

かいぶつさんも怖かった。


練習に明け暮れていた頃でもある。

演っていることは今と変わってない、むしろピアノを弾く技術はその頃の方が上だ。

音符も粒だっている。エッジも効いている。


だけどピアノをより鳴らせるのは今、

より深く関わっているのも今、

確信を持って、音数が減った分、音圧は増したと思いたい。


昔、グリーグの「蝶々」を練習していて、いっこうに蝶々が飛ばないことに難儀したことがある。蝶々は怪我をしているのかどうしても地面にフワッと落ちる。


インストの音楽には言葉がない分、いかに聞き手に伝わるかが大きな問題なのだけれど、その言葉は自分で想像し創造していくほかない。

そうしなければ相手に伝わる訳がないのだから。


蝶々は確かに怪我をしている。だから飛ばない。では怪我の原因は何なのか。


音楽の三大要素は、リズム(律動)、メロディ(旋律)、ハーモニー(和声)であるけれど、私が子供の頃はまだ「4拍子とは1小節に4分音符が4つあるのが4拍子です。」と間違った教えを受けたと記憶している。

義務教育の頃はそんな匂いが確かに残っていた。運動部の生徒が「うさぎ跳び」は足腰の安定感、瞬発力に良いと教えられていた時代だ。


リズムって日本語では律動って記す通り、エネルギーが動く、つまり4拍子とは、一小節にエネルギーが動くワクワクが4回あるのが4拍子なのでは?って思ったのはいつ頃だったろうか。


もちろん拍子だけではなく、フレーズのニュアンスにしても、ちょっとした間(ま)や、飲む音吐く音などいろんなことにリズムが関わってくる。


蝶々の怪我の原因を探るには、まずはプレイバックして確かめるのが一番なのだけれど、

当時はチェック程度の録音も簡単には出来ず、特にピアノの音はもう何年も整調も調律もされてないような音で録れ、プレイバックしてまず最初にガッカリくるのはリズムより何より「私ってこんな汚い音出してるの⁈」が最初に来る。


直ぐに分かるはずのリズムに関する間違いは、まるで音の汚さにかき消されるかのようだった。


そんな中でもどうにか音のミスよりリズムに関するミスの方が遥かに耳障りだと痛感した。


頭で理解してもこれがとっても大変なんだということも実感した。


例えばシューマンのクライスレリアーナOp16.の8曲の内の何番だったか忘れたけれど、ホロヴィッツのそれが他の人とどうしてこんなに違うのだろう、どうしてこんなに躍動感を感じるのだろうって不思議に思った時があった。

他の人と言っても、ホロヴィッツと同じような著名ピアニストばかり。


やはりリズムの問題としか考えられなかった。

もちろんその他の人達というのも凄い人たちばかりなので、ホロヴィッツが群を抜いていたということなんだろう。


楽譜になっているものの方が比較しやすいのでクラシック音楽を例に挙げているけれど、ホロヴィッツは右手と左手のタイム感も違うというのが私の勝手な研究結果なのだけれど、ジャズでもエロール・ガーナーやキース・ジャレットなどはそうかなと思う。

drummerでもダニエル・ユメールなどはそうだったかと思い出す。もちろん他にもたくさんいると思うけれど、今パッと浮かぶのはこんな感じか。


音楽家ではないけれど、顔もそっくり体格も同じでまるで双子かのようなタップダンサー・役者のグレゴリー・ハインツと兄のモーリス・ハインツの(タップ)DUOの微妙なタイム感のズレにもとても興味を持ったものだ。そのズレが面白いしカッコいい。


いずれも楽譜に記すことの出来ない部分の、面白さと難しさ。


リズムに関しては訓練できるもの、もちろん楽器を演奏する人たち、特にdrummerやbassistは特化して訓練してきているのだけれど、突き詰めれば、特にリズムに関しては究極には天性的な素質というものが大きく反映されるように思う。


だから私なんかは余計に努力しなければならない。


何故今更ながらこんな当たり前のことをダラダラと書き連ねているのだろう。

書くことで士気を鼓舞するとでもいうのだろうか。


今更だけれど、サックスとDUOというレコーディングを控え、もちろん日頃のライブも含め、改めて難しさを痛感している今日この頃。


私が一番気になっている自分自身の音楽上の問題を、この篭り期間中によりつきつけられることとなる。


でもそんな追い詰められた状況からゾンビのように這い上がるのは、私の唯一の取り柄のはずだ。


良い成長の機会を与えられたかのようだ。

そして結果より成長の過程を楽しむことができる気楽な性格にも助けられている。


















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