ピアノの椅子のお話
- yoko kobayashi
- 2 日前
- 読了時間: 4分
更新日:1 日前
以前に何度かblogに記したかと思うけれど、今頃になって自分にぴったりのピアノの椅子の高さに落ち着くってなんか可笑しい。
大の大人が、椅子の高低如きでキャッキャしているのが面白い。
子供の頃の、アイス買って当たり棒だった時のような喜び様。(当たり棒の確率は2%以下らしいけど。)
ほんとにこんなに低くていいのかなぁって一度は疑ってみたけれど、今では正しい判断、私にとっては適切なことだと確信している。
今は大体その日の音場ではピアノの椅子を下げることになるのだけれど、時には一番低くしてもまだ高いと感じる場合は、別のピアノ用ではない普通の椅子を出してもらうことになるので、そう言った意味では面倒をおかけしている。
以前はピアノの椅子のハンドルをよっこらしょと回して上げていたのに、今は逆によっこらしょっと下げていることが何だか奇妙だな。
ハンドルを回すのにはかなりの力がいるので、必ず両手で持ち手首を痛めないよう特に注意しなければならない(まぁ中にはハンドルが軽いのもある)
そんな椅子の上げ下げの際、ふと「昨日のピアニストは誰だったんだろう?」と思う。
女性だったら、まぁ下げるのもあり得ることだけど、男性ピアニストだったということも多々あり、身長158cmの私がこんなとこに行き着いた怪奇。
極端に低いのはGlenn Gouldしか知らないけれど、きっと他にもいるに違いない。
と思っていたら、早速衝撃的な映像が目に入ってきた。
近頃のBrad Mehldauだ。
え⁈Brad Mehldauって昔からこんなだったっけ?
以前にMeldau Trioコンサートに足を運んだ際には気付いてなかったことだ。残念ながら腕が見える位置ではなかったからかもしれない。当時は人の椅子の高さなんか興味ないし、目を瞑って聴くことも多い。
その映像では、確かに両肘は鍵盤の位置より低いところにある。もちろん腕全体をスッと高くもできるんだけど、
ピアノを弾いているBrad Mehldauの真横からの全体像が映し出された。
大人が子供用の椅子に座っているような変な感じ。お尻の位置より両膝の位置が高い!
大の大人が子供用の小さな三輪車に乗っている
情景をも連想させた。
足が異様に長いのか?いや違うでしょ。
どう見ても椅子がかなり低いのだ。Gouldと同じくらいなのでは?と思うけれど、Gouldは自分用の(彼の父親が改造してくれたという)低い椅子を持ち歩いていたらしいけど、Glenn Gouldがこんな風に映し出された映像は見たことがない。両膝はあんなに高くなってたっけ?
天才と変人は紙一重とも言われたGouldのピアノの椅子は高さ36cm身長は180cm
Mehldauも身長は高いと思われる。
身長の高い人が低ーい椅子に座ってるものだから、余計にへんてこりんなのだ。
まぁでも、誰それの椅子が極端に低いからどうのこうのって問題ではないし、一度は疑ってみた私の椅子の高さに関しては、今特にピアノとの一体感を感じているし、一体感を感じると心も安定し、心が安定すると自分は確かに生きていることを強く感じるんだと気付く。
音楽に深く集中できるのだけれど、生きている実感が音楽への集中へのエネルギーになっているような気もする。
兎にも角にも、ピアノの椅子が極端に低くなったことが原因で、たったそれだけのことなのに、演奏する上でも生きていく上でも、気構えに変化があったように思う。
今、ピアノを弾いている時が一番生きていることを実感できる。息苦しくない。
そのせいか、ライブ後に帰路についた際、心がドスーンとまるで地面に着くかのように落っこちてかなりキツいけど、そんなものかとしらばっくれることにしている。「あぁ、またそう来ましたか」みたいな。
私の曲に「かぎろひ」というのがある。これは元々ろうそくの炎の不規則な揺らぎをイメージして作った。
自己ユニットTEAM TUCKSで演っている曲で、そのホーン奏者・被害者の会会長に訴えられた曲の一つでもあるw
(訴えはするけれど、文句一つ言うこともなく、メロディを吹き続けてもらっていることに深謝している。)
演奏するのは寝かせていたけれど、
極端に低くなった椅子に座り、この曲の譜面と睨めっこしていたら、炎のかぎろひは心のかぎろひへと変化していて、椅子が低くなったことによる指先と鍵盤との接地面の感触の違いから、スーッと可能性を新たに作り出してくれる道へと導かれていた。
私にとってピアノの椅子のお話は、単なる物理的な話ではなく、心理的にも大きな影響を与えてくれることだった。
出したい音を諦めずにそれに向かって進む力は衰えてないじゃない。
ピアノの椅子のお話
「やっと気付きましたか。あなたに適切な高さはここなんですよ」
Comentarios