ひらがなのような
- yoko kobayashi
- 1 時間前
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2025年は心の底がゆっくりと波立つようなことから始まり、
結果その波はだんだんと高くなり、どうも目まぐるしく終わりそうだ。
特に心の中が目まぐるしい。
今年の後半は特に、現実の輪郭がすこし曖昧になるような感覚がずっと続いていた。
病院のベッドで寝たきりの母にも会うこともできた。
おそらく会えるのはこれが最後かと、目を閉じたままの母の顔をしっかりと心に刻んだ。
そして私に「うん。」と一言だけ返ってきたその消え入りそうな声も銘記する。
自分の声が遠くで響いているような時間だった。
自己のユニットでは、自分自身がリーダーであるべき姿とは程遠いことに悩まされ、
決断したことに対する責任を持つことを少しは学んだような気がしている。
さぁ心機一転、これで新しく前に進めると思った矢先、
10月頭に届いた知らせは、胸のどこかを静かにひりつかせ続けていた。
ふと気づくと毎日涙しているではないか。泣いたところで何かが変わるわけではない。
表向きはいつもと同じなのに、自分だけ別の速度で生きているような感覚だ。
大変なのは私ではないのに情けない限り。
でもいつまでもぐずぐずはしていられない。ショックをエネルギーに変えて、
来年の晩秋の頃には、感謝と畏敬の念を捧げる作品が現実のものとなるよう努力したいと思う。そしてその発表の頃には、形を変えて、ステージで再び観衆の拍手を浴びていただきたい。そう思っている。
しかしながら悪いことばかりではなかった。
今年5月にはTone Momentumのアルバムをリリースすることもできたし、
DUOで結成から5年半も経てば結束力も高まるというもの。
意見交換もできていると思う。
今までのようにmonthlyという訳にはいかないかもしれないけれど、
来年を見据えて、前向きな気持ちになっている。
夢の中にいると思うと逆に新しいものが作られたりもした。物語を読むように曲ができたりもした。揺らぎの中でも、不思議と音や物語の断片が浮かび上がる瞬間があり、
壊れた部分からこぼれ落ちた小さな光を拾うように、それをそっと曲にしていく時間が、今はささやかな救いになっている。
奇しくもTEAM TUCKSが終わりを告げたのと時を同じくして、私自身がメロディを弾くユニット「The DREI」が新しく歩みだしたことは、きっと何らかの意味があるのだろう。
ある日ピックアップした曲の譜面をピアノの椅子に座って見ていたら、物語と同時に浮かんだ新曲もある、いや逆だ、新曲と同時に浮かんだ物語もあった。
一瞬、絵本作家になれた気分だ。ただの絵本作家じゃないよ、本の最後にCDまで付けれる絵本作家だよって。
ピアノを弾くとき、物語を読んでいるように音が出せたら素敵だと思う。
もし童話だったらひらがなが多いかもしれない。
そんなひらがなのようなシンプルなモチーフもとても情熱的に滑らかにピアノでうたえたら最高だ。
2025年ももう後4週間、私にとっては来年への架け橋となるであろう日々。
心が静かに崩れたり積み上がったりは皆にあることだが、そんな時も「悠々として急げ」、それは私には最適だったんだと今思う。
これからは、まるでひらがなのようなシンプルなフレーズを熱意を持って奏したい。



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