今も私を支えている言葉
- yoko kobayashi
- 9 時間前
- 読了時間: 6分
今年の2月だったか、あるインタビューで
「小林さんにとって音楽って何ですか?」と聞かれた。
思いもよらない問いに慌てて、「私らしく生きていくために、なくてはならないものです」と答えた。
でも、本当は今でもよく分からない。
音楽とは何か。
なぜここまで続けてきたのか。
考えれば考えるほど、うまく言葉にならない。
安定した生活や将来のことなど考えずに、ただただ好きで続けてきた。
一つのことをずっと変わらずブレずにやってきた人たちは皆そうなのだろう。
ただ、どんな職種でも同じなんだろうけれど、好きなだけではどうにもならないこともある。
パソコンも携帯もない時代に、私の思う音楽をやっていくには、どうやって切り開いていったら良いのかなんて皆目分からなかった。
音大卒業したばかりの頃は何でもやった。テレビCM、ラジオCMは数え切れず、さまざま会社の企業PR動画、プロモーション、ブランディングムービー、お店の開店時閉店時の音楽、劇伴、アニメ音楽のレコーディング、汽船内音楽などの次から次にやってくるスタジオワーク全般。たまに依頼されるBGMとしての音楽の仕事。
バイトで、当時超多忙な写譜屋もやっていた。この頃が、私が人生で一番忙しかった頃かもしれない。
ライブシーンでの活動を中心にするために、
仕事を選び、自己のバンドでの活動と他バンドのサイドマン、講師の仕事などに絞ってからは収入は激減し、現実を知る。
それでも何が何でも自分が聴いていたい音楽をを目指して、そうできるように今まで一心でやってきた。
音大の同期生は、特に優秀な演奏家コース出は、国内ではもちろん、世界に進出しクラシック界で活躍する人も少なからず、後はピアノ講師を務めながら演奏活動をする、でもピアノ教室を大々的に始める人が大半だったように思う。
ジャズピアニストになりたいなんて誰にも言えなかった。正直言うとジャズピアニストとはちょっと、いや大分違う。自分でも当時上手く説明できず、一番分かりやすく表現するために敢えてこう言っていた。音大当時はジャズ?は良く分からない、と言う人が多い環境だったと記憶している。
そんな異端児は、他に一人も見当たらず、違和感だらけで、当時の友人らしき人は一人もいない。
平成・令和で随分と変わったけれど、音大の在り方に多くの疑問を持つ昭和の時代だった。
音大にジャズ科?そんなこと考える人もいない、クラシック音楽だけが命の、日本の音大内の狭い世界だった。(唯一、大阪音大にはジャズを勉強する場があったと、後に知ることになる。
現にベテランの域に達する大阪音大出身の素晴らしいピアニストは少なくない。)
ただモーリス・ラヴェルの孫弟子だった(音大時代の)師だけは、こっそりと理解を示してくれていたように思う。
そう言えば、「弟子」や「孫弟子」という言葉は、伝統芸能だったり歌舞伎の世界などでは使える言葉のような気がするけれど、音楽の世界ではどうなんだろう?
そんなこと言ってたら、私はモーリス・ラベルの「ひ孫弟子」ということになる。そんなばかな笑
話しが逸れた。
まぁ今でも自分のことをジャズピアニストだとは思ったことがない。じゃぁジャンルは何?と聞かれるのが一番困る。
卒業してジャズの師につく事になるけれど、何度も挫けそうになった時、何の自信もない私には、阪神淡路大震災後の ピットインでのチャリティーライブの日に師にいただいた言葉だけがこれまでの原動力となっている。
師は厳しかった。
言われるさまざまスケールやコードはスラスラと弾けたので、最初のレッスンでは「何を習いに来たの?」から始まった。
「何か弾いてみて」と言われてスタンダードを弾く。
「一応弾けるじゃない、何を習いにきたの?」
私は「何を弾いてもいつもおんなじような感じになってしまって…..。」
師「じゃぁ、いつも同じにならないように弾けばいいじゃない。」
それは分かってますって。確かにそうなんだけれど返す言葉もない。
それから数回のレッスンでは、音楽で食べていくことの厳しさ、男だったらこんなこともあり得るけど、女性は厳しいでしょ?
などの私をやめさせる作戦に出てるなと直感した。私には才能がないと判断されたのか、それでもジャズが、音楽が、ピアノが好きで続けたいという思いを伝え、私と師の対決の時、ディベート?が始まった。
師と私の会話は今思い出してもとても面白い内容が多いけれど、それを今口にすると、ハラスメントと捉えられる可能性もあるので、そのことで変に誤解されては師の沽券に関わるので、ここではやめておく。
不思議と、どんな厳しい言葉にも、
私はどこか思いやりを感じていた。
いつまで経っても、私が諦めないから、師はこう言った。「こんなに言っても音楽を続けるって言うんだったら、もう何も言わない。」
そうして正味3年ほどレッスンを受けていたと思う。さまざま指摘・注意はされても褒められたことは一度もない。
その間には、師のライブに何十回と足を運び、レコーディングも見学させていただいた。
師のピアノのある部分にとても興味があった。それは今も変わらない。
そして師の元を離れてどの位の年月が経った頃か、あの阪神淡路大震災が起こった。
その年の初夏、阪神淡路大震災チャリティーライブが行われた。
2日間、お昼前から夜遅くまで行われたと記憶している。ピットイン主催の、当時出演していたミュージシャンによる演奏を一バンド一曲ずつやった。
バンドメンバーはピットイン側でそれぞれピックアップして決められ、私はOleoを演奏することになった。他メンバーはフロントに松風鋐一さん、竹内直さん、ベースに小杉敏さん、だったと思う。後は覚えていない。
演奏が終わって、廊下に出ると、そこには後に演奏を控える師が待っていて、私は目を疑った。
「誰が弾いてるのか?って思って中に入って聴いちゃったよ。」
会場はもちろん満場なので、廊下で次のバンドがスタンバイしていたんだろうけど、そんな師の足を私のピアノが場内に動かした?
しかもOleoは師のオハコだ。
何かの冗談かと思った。何故なら師の目にはうっすらと涙が滲んでいた。私は目を疑った。
「上手くなったなぁ、こうやって同じ場に立てて感慨深いよ。」
そんな言葉を、師の口から聞く日が来るなんて思ってもいなかった。
私は何も返せなかった。
「でも食ってくの難しいだろう?」「生活大変だろ?結婚はしてないの?」
師は私が結婚していたら、生活の面では一人よりはまだ大丈夫かと、いろいろ心配してくれたのだろう。
レッスンを受けていた頃、ジャズなんてやめた方がいいと散々言われても諦めなかった私への最高の賛辞だった。
「大変だろうけど、身体に気をつけてこれからも頑張って。」
何の自信もない私は、この言葉を糧に、今も音楽を続けられている。
昔は恐縮してあまり話も出来なかったけれど、今、もし師が生きていたら、一杯やりながら音楽の話しを楽しくできるような気がする。
ピアニストの悩みとか、、、笑
師はよく言っていた。「君たちがいっくらがんばっても、俺には辿り着けないんだよ。」って。
私が師から聞いた言葉で、一番好きな言葉だ。
今またレッスンを受けたらどんな感じだろう?聞きたいこともたくさんある。
でも師はきっと言うだろうな。
「何を習いにきたの?」って。




コメント